荻野久作先生の志をつなぐ
2016.3.10
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今から86年前の1930年(昭和5年)2月22日は、日本の荻野久作医師(産婦人科医、1882年~1975年、新潟県にある竹山病院第3代院長)による排卵期に関する論文がドイツの医学誌に初めて掲載された日にあたります。
新潟県新潟市の竹山病院に勤務していた荻野医師は、病院に来る女性患者たちの厳しい現実を目の当たりにしていました。農業等の重労働による過労や頻繁な妊娠と多産のために亡くなっていく女性たち。「足入れ婚」の風習の残る時代で、「嫁して三年子なくば去る」という社会背景で、不妊のため離縁され自殺に追い込まれた女性たち。多くの「悲劇」に接するたびに彼は産婦人科医として、何かできないものかと思うとともに、専門医として多くの命をなぜ救えなかったのかという自責の念にかられていました。
荻野医師は、排卵と月経の因果関係に関する研究を通して、多産を予防し、不妊症の女性を救う方法を模索していました。多くの患者の月経記録や患者の聞き取りから、月経カレンダーを200人に上る女性に記録してもらい、ついに排卵期についての、ある法則を発見できたのです。それまでの通説では月経から14日~16日が排卵期とされていたものが、荻野医師の実証的な研究で、排卵期が次回の月経から12日~16日(約2週間)前にやってくることが判明したのです。これにより女性の命が救えるはずであると彼は確信を持ちました。
しかし、当時の日本の産婦人科分野の専門家たちは、定説を曲げてまで、新潟県の一医師の発見を受け入れる者はいませんでした。
荻野医師は、自分の研究成果は日本では厚い壁にぶつかって認められないと考え、1929年8月、自費で一人ドイツに旅立ったのです。
ドイツの産婦人科医30余人に学説を説いて回りました。荻野医師は、ついに、排卵期に関する研究成果を理解してくれる医師(フンボルト大学シュテッケル教授)と遭遇できました。これがきっかけで世界的に注目されるようになったのです。偏見をも持たず検証することのできる研究姿勢が、その時代のドイツにはあったのです。荻野医師は1930年7月に帰国。30歳から始めたこの研究成果が認められた時、彼はすでに48歳になっていました。
しかし、この説が発表されると、思わぬところから高い関心が寄せられたのです。この学説を逆転の発想で注目したのが、避妊方法としての応用を考えていたカソリック系の医師グループでした。当時カソリック人口は約4億人。この発見は当時のローマ法王ピオ11世によって賞賛されました。自然の摂理に逆らわない避妊方法として脚光を浴びることになったのです。
確かに排卵期でない時期の性行為には妊娠しにくいという効果があることは推測できます。しかし、これは完全なものではありません。人により排卵期もずれます。排卵時期にはそれぞれ幅があり、避妊に失敗することもありました。
荻野医師は、決して避妊方法を開発したわけではなかったのですが、皮肉にも世の中では、オギノ式が避妊方法として有名になったのです。晩年、荻野医師は、排卵期を確定するために研究したものが、このように活用され、それがあたかも、信頼のおけない避妊方法であるとされたことに、「無念さ」を感じたと表明しています。
女性の命を守りたいという信念を生涯持ち続けた荻野医師は、その後、中央から多くの大学病院の教授職などの招聘も断り、人生の最後まで新潟県の一産婦人科医を貫きました。その92年にわたる生涯をかけた女性の命を守るための情熱は特筆すべきものです。1930年から86年が経過した今日もその業績が偉大なものであり、避妊や不妊に悩む多くの女性にとって重要な学説のひとつとなっています。
女性に寄り添い、女性の命を救うために立ち上がった荻野久作医師の偉業に思いをはせ、同郷(愛知県豊橋市)生まれの大先輩である荻野先生の功績を改めて記憶にとどめたいと思います。
(2016年3月、東京にて)
公益財団法人ジョイセフ
常務理事・事務局長
鈴木良一